こんにちは楳村郁子です。
その昔、不登校だった息子が
先日高校を卒業しました。
息子の話は
いつかブログ記事にしたいと
ずっと思っていました。
でもなかなか心の準備ができずに
6年が経っていました。
今回の卒業が
まさにタイミングなのかな?
と思うので、
ほんの11歳だった彼の人生に
どんなことが起こったのか
書き記したいと思います。
すごく長い記事になってしまいましたが、
もしかしたらこの話が
誰かの心をノックするかもしれない。
のぞいて見たいなって方は
読み進めてください。
2013年のことです。
私と娘、息子の3人は、
オーストラリアに夫を残し
3人で日本に住むことにしました。
日本に向かう飛行機の中にて。
私の父の病状が重く、
最後の短い期間を
そばで一緒に過ごしたいと思ったのです。
オーストラリアで生まれ育った
子どもたちに
日本の教育を受けさせてみたい。
と言う気持ちも大きかったです。
日本語の言葉の素晴らしさや、
日本の四季を味わったり、
伝統的な行事や習慣を
生活することで体感してほしいと思いました。
そして日本の学校で教育を受けて、
細やかな勉強の仕方なんかも知って欲しかったのです。
子どもたちも初めての日本の生活に
胸いっぱい膨らませて
新しい生活をスタートさせました。
引っ越し準備。日本に持参する宝物たち。
それまで子どもたちは
私が日本語で話しかけても、
英語で返事が返ってくる。
兄弟同士では英語でしか会話をしない。
そんな状態だったのですが、
関西空港に降り立ったその瞬間から
全く英語を話さなくなりました。
子どもなりに
日本で英語を話していると
振り返って人に見られる。
そんなことを
敏感に感じ取っていたのだと思います。
今まで日本語100%の生活をしていなかったので、
日本語で何か聞かれても
回答するのにとても時間がかかります。
頭の中で
英語出てきたセンテンスを
日本語に直して
そして言葉に発する。
それにはほんの少しだけれども
時間が必要だったのです。
その時息子は小学校6年生でした。
いきなり通常の授業は難しいと思ったので
外国人が多く通い、
日本語のサポートもしてもらえる
公立の小学校を選びました。
ただ息子は見た目は日本人。
会話も日本語でそれなりに成り立ちます。
学校の先生やお友だちからは、
日本語での生活や勉強に
大きな支障がある
と言う風には見えなかったのでしょう。
日本語の補修授業に
参加させるのも
何度も交渉が必要でした。
全然日本語ができない
外国人の子どもたちが何人かおり、
彼らのケアで
学校も手がいっぱいだったようです。
息子は国語の時間に
日本語の補修授業に参加していましたが
プリント1枚渡され
それを自習しておくようにと言われます。
授業の間中
ほとんど誰とも話さず
先生の指導もなく
読めない、
意味もわからない紙切れを前に
ただ座っている事しかできない息子でした。
算数や理科、社会などの授業は
他の生徒と同じクラスで勉強していましたが、
テストをさせると0点しか取れない息子に
先生は
オーストラリアで使っていた教科書を
持ってくるようにいました。
でもオーストラリアでは
教科書と言うものがないのです。
それを聞いた先生は
ただただ私にあきれた表情で
ため息をつくだけでした。
友だちとの交流も
彼にとっては難しかったようです。
地元関西では
子どもの頃からボケやツッコミが
体に染み込んでいます。
何も悪いことをしていないのに
頭を叩かれたり、
きついツッコミが入ったりするのも
彼には受け入れられないこと
だったのでしょう。
オーストラリアの学校では
頭を叩くような行為は
イエローカード。
でも日本の学校では
誰も注意さえしない状態。
クラスに女の子3人組がいました。
そのうちの1人の女の子は
残りの2人から
明らかにいじめを受けていました。
でもいじめられている女の子は
それでもニコニコして
3人組から離れようとしません。
その様子は息子には
理解ができませんでした。
それを息子は「おかしい」
と先生に訴えました。
でも息子の訴えを
先生は
受け流すことしかできなかったのです。
集団無意識と言う言葉があります。
個人個人は独立して
思想や考えを持っていますが
その意識は無意識の領域でつながっていて、
それでアトモスフィアが作られているのです。
息子は今までの環境と
全く違う考えや習慣を
受け入れることができず、
だんだんと心自尊心を失っていました。
私は思うんです。
今、多くの子供たちが
理由のわからない不登校状態にあると聞きます。
でもそれって
集団無意識が
子どもたちの自尊心を傷つけている。
これが理由なんじゃないだろうか。
全く学校に行けなくなったある日、
息子が泣きながら私に言いました。
手のひらには小さな紙屑が載っています。
「マミー、
僕の心がこの紙屑だとしたら、
今の心はこんな感じなんだよ。」
そう言って
手のひらの紙屑をぎゅっと握りしめて
ぐちゃぐちゃにしてしまいました。
私は涙が止まりませんでした。
「どうして僕を産んだの?」
「生まれてきたくなんてなかった。」
「死にたいよ。」
11歳の息子に
こんな台詞を言わせてしまった私を
自分自身は一生許すことができないでしょう。
私は後悔と言う言葉が大嫌いです。
すべての出来事は必然であり、
すべての苦難はギフトである。
そんなふうに考え、
そんなふうにとらえようと思うし、
そんなふうに思えることもあるけれど
それでもやっぱり
このことだけは
一生心のどこかで後悔し
自分を許せないでしょう。
私は彼のために
思いつく限りの
ありとあらゆることをやりました。
学校や校長先生は全くあてになりませんでした。
児童相談所もあって無いようなものです。
公的な機関に頼る事は無駄だとわかり、
スティーブンコーヴィーの
7つの習慣を取り入れた
学習塾があると聞いて
家族3人でその塾に通ったり、
息子のメンターになってくれればと
20代の男の子の
コーチングセッションを受けたり。
兄の援助を受けて
インターナショナルスクールに
転校させたり。
でも1番大きな
心の決心ができたのは
息子が1月の真冬の夜中に
完全防寒の服装で、
500円ほどの
お小遣いの入ったお財布だけを
握り締めて
家を出る決心をした時です。
どこに行くあてもない。
今晩泊まる場所さえわからない。
学校に行かなくても
家は居心地が良いのだと思っていたのに、
家から離れてどこか遠くに行きたい。
誰にも見つからないところに行って
消えてなくなりたい。
この子、死ぬつもりなんだ。
そう思いました。
そんな彼の心を知って、
「私の気持ちでさえも、彼を苦しめていたんだ。」
と、思い知らされました。
そうなって私も初めてわかったのです。
「ただ生きてるだけでいい。
他には何もいらない。」
あれから6年。
彼は2日前に高校を卒業しました。
「生きているだけでいい」
と思っていたはずなのに、
通知簿だって
見ないできたのに。
それなのに
高校卒業することが、
嬉しいとか、
お祝いだとか、
いまだに私が
そんなことに価値観を
まだ持っていたなんて。
そんなことにも気づかされました。
高校の卒業資格なんて
この自然界のサイクルの前では
何の意味もありません。
何を持っているかではなく、
どんな経験をしたのか。
それが1番大事だ
と言う事は
過去においても
これからの未来においても
忘れちゃいけない。
私はまた息子に
大事なことを教えてもらいました。
これから真っ白な未来に向かって
今度は私たち親のサポートもなく
自分の翼で羽ばたいていく息子を、
誇らしい気持ちと
寂しい気持ちが入り混じって、
目にいっぱい涙が溜まってきたけど、
顔は笑顔にして。
「いってらっしゃい。」
と送り出すのが
私の最後の仕事です。
石田美保
郁子さん
ご無沙汰しています。滋賀の石田美保です。
我が家は夫が中学教諭、わたしも児童教育学専攻で、また専門学校教師だった経験があり、ご子息のことは胸を痛めながら読み進めました。
わたしも妬み嫉みで小学校高学年に集団無視のいじめにあった経験があります。個性や少数意見は排除の担任やクラスに辟易してしばらく休みました。
唯一、学年主任が親身になり、表だっては仲良く出来ない親友がそっと電話をくれました。
夫はあと少しで定年ですが、わたしの恩師と言える学年主任のような教師であることには尊敬しています。
ご子息ののご卒業が感慨深いお気持ちも事実です、
祝いたくなるのは生きて育ってくれたことへの感謝だから。
郁子さんもご自身を許して労ってくださいね。
そこから親子の新たな幸せのステージが始まりますね。
楳村 郁子
みほさん、ありがとうございます。
教職って本当に大変なお仕事だと思います。
特にこの10年、20年で「先生」のあり方も大きく変わったのではないでしょうか。
「祝いたくなるのは生きて育ってくれたことへの感謝だから。」
ー>そうですね。その通りだと改めて思いました。
気づかせてくださって、ありがとうございます!!